八ヶ岳アカデメイア――解説

“言語学習環境論”への視座――生きた鳥を野に放つ

細川英雄(言語文化教育研究所代表)

最近出会った日本語学校の先生からこんな話を聞いた。

ワンランク上の仕事をめざして母校の大学院に聴講生として通っているが,講義で話されるのは,実際の役にはほとんど立たない文法や発音の細かいことばかり,仕方がないから,勉強は勉強,仕事は仕事と割り切っている,といかにも残念そうだ。

では,なぜ研究の理論は実践の役に立たないのだろうか。それは従来のことばの研究がことばを《生きたもの》として捉えてこなかったからだろう。否,机上では認識しているのに,それを実際の言語習得の場において考えたことがなかったからだというべきだろう。

ことばを対象としてそのことばの構造・体系を明らかにするだけという「ことばフェチ」の言語研究の姿勢では,もはや学習者のニーズに応えることができない。

《生きた日本語》を考えることは,その構造や体系を分析することではなく,むしろ人間一人一人がどのようにそれを身につけることができるのか,それにはどのような環境づくりが必要で,さらにそこで担当者はどのような支援ができるのか,といった視点が不可欠になる。いわば「焼鳥のための解剖」学ではなく「生きた鳥を野に放つ」思想だ。

こうした考え方を“言語学習環境論”と呼ぼう。「言語文化教育研究所」がめざしているのは,この「鳥が野山でいかに幸せに生きることができるか」という“言語学習環境論”確立のための議論である。ここでは,言語学習における学習者主体のあり方や文化体得の意味が問われることになる。すでにその一部は,『日本語教育と日本事情――異文化を超える』(明石書店)でふれたが,「言語文化教育研究所」は,このテーマを深める場としてありたい。