評価はどうするか。数値化による客観的な基準が出せないと,学校制度の枠組みの中では機能しにくいのではないか。
総合ではまずはじめに,評価の枠組みを明確にします。
つまり,半年の学習を通して何をクリアすべきかを最初の段階で学習者と担当者が共有するわけです。もちろん,このための枠組みは担当者が作成します。たとえば,レポート集をつくるという目標のクラスの場合,「かたち」として次のような目標を設定します。
「かたち」として,以上の4項目をクリアすれば,形式として「優」(80点)とします。
このように,まずはじめに評価の枠組みを決めておき,このハードルを越えるために皆でがんばろうという目標を立てます。その結果として,80%は「優」(80点)となり,あとは内容面との調整によって,前後10%程度に分かれます。(内容面に関しては相互自己評価表を参照)
これでは差がつかないという反論も出るかもしれませんが,こういうクラスがいくつかあれば,それだけで,十分差はつくでしょうし,考えてみれば何のために差をつけるのかということに担当者はもっと自覚的になる必要があります。このクラスはインターアクションのための一種の共同体を形成するわけですから,本来差をつけるためのクラスではないのです。したがって評価の方法としては,参加者それぞれの能力がそのまま評価される絶対評価の方法をとることになります。これに対して,クラス内での評価の割合が決定されている,いわゆる相対評価が制度化されている組織の場合は,なぜ絶対評価ではないのかということに現場として問題にしていくことになるでしょう。
こうした実践の精神的な意義は認めるが,どのような効果があったのかわかりにくい。学習の効果はどのようにして測るのか。
これは非常にむずかしい問題です。
従来型の教育で,一定の与えられた知識をどれだけ覚えたかというのは数値化しやすいけれども,それが効果があったかを測る本来の意味でのバロメーターになっているとは思えません。たとえば,単語を数百おぼえ,ラストで満点をとったが,実際の場面ではまったく使えず,1ヶ月たったら皆忘れたというようなことはしばしば指摘されることです。
この実践ではそうした一時的な記憶や数値化できる事柄を問題にしているのではありません。実際の場面で,ことばを適切に運用するための力を問題にしています。ここでいう「適切な運用」とは,実際のコミュニケーションの中で,その場の状況を判断しつつ,自分の考えをことばにして,相手を説得できるということです。
したがって,身につけた効果や能力を見るには,その学習プロセスと最終成果を公にするしか方法がありません。学習プロセスそのものをすべて公開するには限度があるので,最終的には成果を公開することが重要になりません。つまり,成果を公開することによって,さまざまな他者から評価を受けるのです。成果が学習者の目的達成のプロセスをはっきりと伝えている,あるいは学習者の考えていることがよくわかる,と評価されれば,この実践の効果があったと考えるわけです。だからその成果物は,その学習者の主張として広く他者に対して説得力をもつものでなければなりません。たとえばどんなに日本語らしい日本語で書かれていたとしても,独善的なナショナル・アイデンティティに陥っていたり,安易なステレオタイプ化したものであれば,当然批判されるべきものでしょう。
従来から,日本語教育では,定められた期間での効果的な学習というようなことが唱い文句になってはきましたが,言語学習の効果とは,文型,語彙,漢字をいくつ覚えたということでは測れないものです。むしろ,その習得した文型,語彙,漢字などで,相手の言うことをどのように理解し,自分の「考えていること」をどのように表現できるようになったかが問題でしょう。構造的な正確さや定型の流暢さだけではなく,相手をどのように説得し納得させることができるかというものでなければならないはずです。
こうした観点を無視して,言語教育の効果などを軽々しく言うことはできないのです。
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