「私」をくぐらせるという方法は結局,担当者のイデオロギィを学習者に強制することになりはしないか?
「私」をくぐらせるという方法は,とくに私が考案したことではなく,昔から国語教育その他 の分野で行われてきたことです。文章を書く場合もしばしば「顔のある文章を書け」と言われるように,「私」を語るということは人それぞれが自分の固有性を認識し,他者と共生していく中で重要なことなのだと思います。最近では精神医学の分野でも改めてこうしたことが問題になっていると聞いています。
ここでの学習者および担当者の不安は,今までそうしたことに直面したことがないという不安です。つまり,今まで「私を語れ」と真正面から言われたことがなかったからです。
しかし,「私」がなかったら,この世で生きていくことも,他人のことを考えることもできないわけです。だからしっかり自分の考えをもって,と言われるわけで,そのことに対しては,おそらく何の反論もないでしょう。
つまり,自分の意見を持て,あなただったらどうするか,ということは,さまざまな問題に対して,自分で責任を持つということなのです。だから,「私をくぐらせて書け」という指導は,決してイデオロジックでもなければ,思想の強制でもないのです。
もしこうした活動にアレルギーを起こす人がいたとしたら,それはよほど自分の責任を回避してうまく立ち回ってきた人か,あるいは外野から文句ばかり言って自分の責任をとろうとしてこなかった人ではないでしょうか。
したがって,「私をくぐらせる」ということは,その「私」の中身を限定せよということではありません。むしろ,「私」をくぐらせることによって,いろいろな問題に自分の責任において正面から立ち向かう勇気をもて,ということなのです。
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